
1905年には初めての詩集「あこがれ」を出版。明星派の詩人として世に出る。この年、節子夫人と結婚するが、その後創作活動は長く続かず、1907年に北海道各地を転々とする。翌年再々度上京。金田一京助と同宿しながら小説の連載活動。しかし、生活はかなり苦しく、多大な借金を背負っていたといわれる。1911年に悲しき玩具などを発表後、極貧の中、わずか27年の生涯を終えた。「働けど 働けどなお 我暮らし 楽にならざり じっと手を見る」という短歌つとに知られている。
俺は死ぬときは、函館で死ぬ。と云ったほど、函館を愛した啄木。函館で暮らしたのは4ヶ月ほどの短い期間であったが、婦人の希望で一周忌の大正2年(1913)に遺骨を東京から函館に移された。現在は、妻、子供3人、両親らの一族が眠っている。









