函館の歴史
幕末の開港以来、港の発展とともに歩んできた街であり、それに呼応して函館山の周辺から亀田半島方面に向かって市街地が拡がってきました。旧亀田市との合併などはこの流れを受けてのものであり、大野平野を抱える七飯町や北斗市の人口増加にも影響を与えてきました。これらを裏付けるように街の盛り場も十字街地区から大門地区へ、さらに五稜郭地区、昭和・美原地区へと変遷しています。
明治の開拓使時代には出張所や支庁が置かれました。その後それらが廃止され北海道庁が設立されるまでのわずかな期間には、函館県の県庁所在地でもありました。このような経緯で道南地方の中心地としての礎が築かれ、今日では主だった国の出先機関や北海道の出先機関である渡島支庁などの行政機関が一通り所在しています。
地理的に本州に最も近い港町であるため明治時代から海運は発達し、北海道と本州との連絡としてかつては青函連絡船が、そして今なお定期フェリーが青森との間に就航しており物流の結節点となっています。道都である札幌との間の陸上交通として、鉄道では函館本線が、道路では国道がともに明治時代に全通し、以降は室蘭・千歳経由の路線の設置や車両の改良、道路の舗装や拡幅工事などが進められ、時間距離は短縮してきています。近年は札幌側から高速道路が着々と延伸されてきており、一般国道との二重路線化がなされようとしています。空港も昭和中期に開港して以来、滑走路の延長やターミナルの整備が進められ、ジャンボジェット機などによる定期便やチャーター便の就航により国内はのみならず、近年は台湾など国外からの観光客の入れ込みが増えています。また将来的には隣接する北斗市までの北海道新幹線の延伸開業が決定しており、青函トンネル前後の区間で工事が行われています。
函館の名前の由来
幕末の開港以来、港の発展とともに歩んできた街であり、それに呼応して函館山の周辺から亀田半島方面に向かって市街地が拡がってきた。旧亀田市との合併などはこの流れを受けてのものであり、大野平野を抱える七飯町や北斗市の人口増加にも影響を与えてきた。これらを裏付けるように街の盛り場も十字街地区から大門地区へ、さらに五稜郭地区、昭和・美原地区へと変遷している。
函館と言う名前の由来は享徳3年(西暦1454年)津軽一族、河野政通が「ウスケシ」(アイヌ語で湾の端と言う意味)と呼ばれていた頃の漁村に館を築いたがこの館が箱に似ている所から「箱館」と言う様になり明治2年(1869年)蝦夷地を「北海道」と改めたおり箱館を「函館」と改めました。
函館の特徴
函館は安政6年(1859年)日米通商友好条約により、横浜・長崎と共に日本で最初の貿易港となったことで急速な繁栄をとげました。
この為、欧米文化の影響を直接受け、町並みや建物に今もその面影をとどめ、特に函館西部地区の元町周辺は開港当時から栄えた所で、各国の様式を備えた教会・旧領事館・石畳の坂道とこれらがかもし出す風情はエキゾチックなムードを漂わせている。
また、明治維新における函館戦争の歴史の跡々、北洋漁業の策源地にみる伝統などが、それら外国文化の名残と有機的に交錯され函館独特の街が形造られている。